新潮文庫「責任 ラバウルの将軍今村均」(角田房子著)を読みました。企業による不祥事が新聞をにぎわせ、組織は責任を担当者だけに押し付けようとする、また政治家は二言目には「秘書がやったことだから・・・」と言い逃れをする、そんな時代にこそ読んで欲しい本です。

今村均は昭和17年、第八方面軍司令官としてラバウルに行き、そこで自給自足の戦いを続け終戦を迎えます。彼は「日本の将兵の中に処罰すべき者がいるというのなら、私一人を裁けばいい。部下はみな、私の命令を実行したにすぎないのだから」と自らの意思でラバウルの戦犯収容所に入ります。その少し前には、ラバウルにも復員船がやってくるようになり、次男が船医としてやってきます。しかし、彼は息子には会いませんでした。彼にしてみれば自分だけ家族に会うなどということはできなかったのです。ラバウルの収容所ではかつての部下を救うために何でもやりました。

その後、オランダ軍の裁判を受けるためにジャワへ行きます。今村均は昭和16年第十六軍司令官として当時オランダ領だったインドネシアに上陸し、わずか9日間で相手を無条件降伏に追い込みます。その後、本国の指示に抵抗し融和策でインドネシアの人々と接します。この時、インドネシアの初代大統領スカルノとの友好も深めました。

彼はインドネシア人が主に収監されているジャワの刑務所で、「八重汐」の大合唱で受け入れられます。「八重汐」とは彼の統治時代に日本とインドネシアの両民族融和の歌として公募されたものです。彼の人柄を物語っている逸話といえましょう。

ジャワで無罪の宣告を受けた後、ラバウルで受けた刑に服するため巣鴨刑務所に送られますが、ラバウルの収容所で一緒だった人たちがその後マヌス島に移され酷い扱いを受けていることを知ります。彼は奥さんに頼んで何度もGHQに足を運ばせ、マヌス島への移送を申し出るのでした。昭和25年、彼の願いはかなえられ、マヌス島へ行きます。この時、マッカーサーは「旧部下戦犯と服役するためにマヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めての真の武士道に触れた思いだった」旨のコメントを残しているそうです。

マヌス島では彼の人格により待遇が改善されました。

昭和28年、今村均は帰国しますが、自宅庭に作った三畳一間の小屋に自らを幽閉するような生活を送り、かつての部下を名乗り助けを求めてくる人があれば死ぬまでそれに尽力するのでした。ある日、「相手の話を確かめてから、援助されたらいかがですか。大分、だまされておられますよ」と言われた今村は「それは私にもわかっています。だが、戦争中、多くの部下を死地へ投じた身です。だから戦争がすんだ後は、生きているかぎり、黙って旧部下にだまされてゆかねば・・・」と答えたといいます。この言葉に彼の思いがにじみ出ていると思います。

日本の武将にはこういう人もいたのだな、というのが率直な感想です。改めて手元の地球儀でラバウルの位置を見ると、日本からはものすごい距離があります。もうほとんどオーストラリアです。こんな離れた場所ではいつまで補給が続くかもわかりません。彼が取った戦略は自給自足でした。仮定の話はあまりしたくはありませんが、彼のような軍人がもう少し日本にいたら戦局はまた少し違った方向へ進んだのではないかと思うのは私だけでしょうか。