沖縄に行った際にドライバーの特権で立ち寄ったのが嘉数高地。現在は嘉数高台公園として写真のような展望台がある公園として整備されています。
ご存知の通り、沖縄は先の大戦で米軍との陸上戦が行われた地であり、海岸線から上陸してくる米軍を迎え撃った大きな戦いの一つがここ嘉数高地にて行われました。
きっと、この写真に見える海岸線から米軍は上陸を試みたのでしょう。海岸からここ嘉数高地まで今は建物がいっぱいありますが、当時はどうだったのでしょう。展示されていた写真では何もない平地になっていました。あれが戦闘の結果そうなったものなのかどうかはわかりません。
陸上戦においては低い所よりも高い所に陣を構えるのは過去の戦いを紐解くまでもなく一般的かと思います。日本軍がここから上陸してくる米軍を迎え撃ったのはその地形を見れば納得できるものでした。海岸線に対して高地であるのは当然ながら、写真の通り内陸に対しても高地となっています。地形をうまく利用しこの内陸側に主戦力を温存する、いわゆる反斜面陣地を採ったという話も現地で実感することができました。
頂上付近には当時のトーチカ跡が残されていました。当時、この中から米軍に対峙した日本軍兵士の思いはどのようなものだったのでしょうか。撤退などというのは許されず、まさに死守を任されていたのだと思います。そういう人たちの犠牲の上に今の日本があることを再認識させられるトーチカ跡でした。
この嘉数で戦った第62師団の多くは京都出身者で構成されていました。その慰霊のため、この京都の塔が建てられています。
この嘉数高地からは、米海兵隊の普天間基地が良く見えます。複雑な心境ではあると思います。実際に民間人が戦闘に巻き込まれた沖縄の人の気持ちは、同じ日本人でも本土の人とはだいぶ異なるのが、実際の戦地を見て少し納得できた気がしました。
水際防御では押し寄せる米軍を撃退できないことを知った日本陸軍は、硫黄島の陣地防衛戦に自信を深めて戦術転換を図り、沖縄の各地の地上戦で米軍に出血を強要することに成功しましたが同時に一般住民に多大な犠牲ももたらしてしまいました。
もしこのような地上戦が本土のいたるところで展開されていたら日本はどうなっていたことでしょう・・・。
今も昔も沖縄の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけませんね。