電車の中などでも結構知らない人同士が言葉以外の手段(一般にボディーランゲージというのでしょうか)でコミュニケーションを取っていることがあります。今まであまり意識していなかっただけで、実は多くの情報交換をしていることに気がつきました。
最近、特に注意深く意識している「コミュニケーション」が2点あります。
一つが目をパチパチさせる瞬きです。何となく誰かの視線を感じる時があります。そんな場面を想像してください。そして、その視線の発信者の方をぱっと見るとします。十中八九、その視線の主は目をパチパチさせるはずです。「私は見ていません」というごまかしなのか、それとも「私には敵意はありません」という意思表示なのかわかりませんが、おもしろい発見でした。意識してみたら私自身もやってました。
さらに楽しいことに、この目パチパチは実際にはこちらを見ていない人でさえも行うこともわかりました。実際には私を見てはいないのに、顔だけはこちらを向いているということがあります。そういう人の方をぱっと振り向くと、目線はこちらを向いていなくても目をパチパチさせる人が結構多くいるのです。「私は見ていません」という意識が無意識に目をパチパチさせるのでしょうが、逆に怪しく感じてしまいます。
そして二つ目の「コミュニケーション」が腕時計を見るしぐさです。電車を降りる時や改札を出る時の列で、少しのスペースにちょっと強引に割り込んでくる人がいます。本当に無神経な人は何もしませんが、一部の人は割り込んだ後にさりげなく腕時計に目をやります。おそらく、その行為で「私は急いでいるんで割り込ませて」ということを伝えようとしているんではないかと思っています。そんなことに気づいてからは、割り込まれてもその後で時計を見る人にはあまり怒りを感じなくなりました。
以上が最近気にしている2点です。きっとこんなことを学術的に研究している学問もあるのではないかと思います。心理学になるんでしょうかね。少し興味があります。
私を見ている人は大体、肝が据わったもので、目が合ったことを特にあわてて打ち消すような挙動を取らないのです。しばらく目が合った後、私の周辺の人々や、周辺の「見もの」を同じように眺める。その中でまた私を見ることもある。
その挙動が一つのサインであるとすると、当然のことではありますが、「その辺を眺める行為は極自然な行為です」というわけです。もしくはそんな申し開きをするまでも無くそうしていると。