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井の頭自然文化園に行った日には、ほんの少し南下して玉川上水のほとりも歩いてみました。写真は、万助橋から上流方面を撮影したものです。
玉川上水とは、1653年(承応2年)、江戸の飲料水確保のために羽村から新宿四谷まで掘削された水路です。以前触れたことのある野火止用水もここから分水しています。淀橋に浄水場があった頃はそこまでの導水路としても使用されていましたが、現在でも一部は東村山浄水場への導水路として現役だそうです。
とはいえ、上の写真のあたりは導水路といよりはせせらぎといった感じで、周辺の雑木林と気持ちよくマッチしていました。実はここで色々と思うところがありました。「玉川上水の謎」というよりは「玉川上水に関する私の無知」というほうが適切な表題だったかもしれません。
まず、第一の疑問はその名前でした。多摩川から水を引いているのにどうして「玉川」なのだと。これは玉川上水を作ったのが玉川兄弟(庄右衛門、清右衛門)の二人だからなのだそうです。なるほど・・・と一度は納得したのですが、よくよく読み進めると、二人はこの玉川上水工事の功績を認められて玉川姓を名乗るようになったとあるので、ますますわからなくなりました。
第二の疑問は太宰治です。太宰治は上の写真のほんの少し上流で入水自殺をしたのですが、今見る玉川上水はどう考えても大人が入水自殺をできるような場所ではありません。水量が少なすぎます。でも、これについては太宰治自身の著書「乞食学生」を読んで合点が行きました。この中で「川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している」と書いています。昔は水量も多かったということでしょう。考えても見れば今の水量では淀橋浄水場までの導水路としての機能は果たせませんね・・・。
そして最後の疑問が上の碑です。万助橋から下流に少し歩いたところにありました。松本訓導の石碑です。1919年(大正8年)、この地に遠足に来ていた生徒の一人が玉川上水に落ち、それを助けようとした松本訓導が助けようとして殉職したとありました。どうしてこの水量でという疑問は上に通じるのですが、それ以前につまづいたのが「訓導」という言葉でした。恥ずかしながら初耳です。殉職という言葉から警察官の仲間かとも思いましたが、帰宅後これはあっさり教員のことであることがわかりました。ちなみに上述の「乞食学生」でも上で紹介した一文のすぐ手前に「この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死(できし)なされた」とあります。
以上、玉川上水とはあまり関係の無い(最後にいたってはまったく関係の無い)謎でした。