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野塩西原遺跡(野塩地域市民センター)

 以前、清瀬市の遺跡一覧というページを見て、野塩西原遺跡と野塩前原遺跡というのが気になっていました。何か遺跡として残されているのであればぜひ見てみたいと思っていたのですが、ひょんなことから見つけてしまいました。

 それは時々行く、清瀬市の野塩地域市民センターにありました。

 何のことはない、野塩西原遺跡とは野塩地域市民センターの工事で出てきた遺跡のようで、今となっては遺跡は建物の下のようです。確か、工事現場で遺跡が出てきた場合は、調査をしなければいけないという決まりがあったかと思います。調査さえ終われば、工事はそのまま続行です。よっぽどの大発見でも無い限り、遺跡は遺跡としてまた土の中です。そういえば、雑司ヶ谷駅近くの道路収用地で行われていた遺跡調査(こちら参照)も半年後には平地に戻されていました(こちら参照)。

 野塩地域市民センター内にあった案内表示で気がついたわけですが、それによると、こうありました。

「続日本後紀」の天長十年(八三三)五月の記事に、多摩・入間郡の境に旅人や飢人・病人の苦難を救うために「悲田処(ひでんじょ)」設置を請願した記事がみられます。柳瀬川は多摩郡と入間郡の境を流れているので、従来より悲田処の場所が多摩湖町・野口・久米川・所沢・秋津などにあったとする説が出されていますが、もし秋津説をとれば、この地に悲田処のあった可能性が強くなってきます。

 大きな発見の可能性もあるようです。昭和51年といいますので、発掘調査はだいぶ昔ですが、日本の古本屋で検索すると「野塩西原」という調査結果をまとめた本も出ているようです。興味のある方は読んで概要を教えてください(自分で読めって)。

野塩西原遺跡の掘立柱跡

 案内板によると、野塩市民センターの駐車場にある白い○印は、遺跡の掘立柱跡だそうです。でも、ちょっとわかりにくです。多分、上の写真の右下にある○がその名残りじゃないかと思います。どうやら、もう遺跡調査も過去のものになってしまったようです。