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いまでこそ埼玉所沢や東京清瀬界隈をフラフラしておりますが、会社勤めをし始めてからは神奈川県民歴も長かったリします。海老名市民、大和市民、相模原市民、特に最後の相模原市民は計4年やりました。そして、横浜市民だったこともあります。港南区に住んで戸塚区まで通ってました。
先日、久しぶりに戸塚に足を運びましたので、少し高いところを散策してみました。
埼玉県出身者からすると、横浜は坂の多い場所です。横浜駅から戸塚方面に電車を走り出したあたりの風景にはいつもびっくりです。あんな崖の上に家があって大丈夫なんだろうかと。
だからというか、少し歩くと結構見晴らしの良い場所に立つことができます。
今回の風景は戸塚区吉田町と舞岡町と上倉田町の境目あたりです。まずは戸塚駅から車道の長い坂を直登します。そして、最後はマンションに囲まれた間の道を少しだけハイキング気分です。
登りつめたところ(30秒くらい)には吉田連絡線という送電線の鉄塔が立っています。でも、戸塚駅方面の展望はすばらしい場所でした。おもしろいことに同じ高さの場所でもフェンスで囲まれている場所がありました。何だろうって良く見るとフェンスの向こう側はマンション居住者専用の見晴台のようです。
少し離れた隣のピークにも行ってみました。こちらは八幡山と呼ばれる山林のようです。木々に覆われているため展望はありませんでしたが、古そうな祠を見つけました。昔の尾根伝いの生活道路だったのでしょうか。高い場所であることは間違いないようで、すぐ近くにはNTTドコモの基地局アンテナが建っていました。
せっかくなのでピークとピークの間の落ち込んだ部分にも足を運んでみました。舞岡町です。なんと、田んぼ(かな??)がありました。ちょっとびっくり。横浜市民だった当時にはいかに都会風景しか見ていなかったかがわかりました・・・。
おれは、古い祠、石碑の類を見つけると、思わず碑文、裏の署名なんかを読んじゃいます。
そうすると、たとえば、鎌倉のお寺と、江戸時代の品川あたりの下町の講の人たちのつながりや、練馬高野台の寺と浅草あたりの下町の講のつながりなど、現代とは違った人のネットワークが見えたりして驚かされることがあるんです。豆腐屋の娘某なんて名前が刻まれていたりして、強烈に当時の息吹が感じられたりします。
これは石碑に限らず、お祭りの舞などでも、今日と違う山筋の村と村のつながりによる類似などが舞いそのものや、由緒に残っていたりして、はっと目からうろこが落ちるようなことがあります。
今日のパソコンネットワークは、何百年か後、誰かにそんな風に発見されることがあるのかどうか、その時代に飛んでいって、見てみたい気がします。